イランイランの花が咲いた。

矮性のイランイランの木は、20cmほどの株から育てて、もう15年ほどになる。
万事順調だったわけではなく、カイガラムシの被害にあったり、葉を全部落とすことなどしょっちゅうで、いつまで経っても気分屋で、振り回されている。
それでも毎年、数え切れないほどの花を次々に咲かせ、ここを訪れる人に褒められている。
イランイランという名前は、一度聞けば忘れられないような個性がある。
同じ音を二度くり返すことも、舌の上がなんだかあまったるい気持ちになる。
その名は、フィリピンのタガログ語、ilang-ilangに由来するという。
一般には「花の中の花」と紹介されることが多いが、その語源には諸説がある。
たとえ意味を知らなくても、名前を聞くだけで、甘くゆらぎ、どこか遠い場所へ誘われるような気分になる。


開花が始まってしばらくは、香りはほとんどない。
時間が経ち、花びらがしおれて垂れ下がると、ゆっくりと濃厚な甘い香りが漂ってくる。
果物が熟しきって、発酵し、腐敗していくような香りに、青いクレゾール調の鋭い香りが鼻を刺す。ドロドロに溶けてしまいそうな深い瞑想や鎮静を感じる一方で、頭痛や目眩を呼び起こされる時がある。

この香りを嗅ぐと、アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」を思い出す。

失踪した友人を探して、男がインドの夜を旅していく物語。病院、駅、ホテルと、彼は行く先々で人に会い、友人の痕跡をたどる。けれど、尋ね人に近づいているのか、遠ざかっているのかもわからない。探している男と、探されている男が少しずつ重なってとけあっていく。
夜が似合うイランイランの香りは、この物語のように、理性と本能が混ざり合うような感覚がある。
昼間には守られていた部分が緩められ、自分の中にいる、もう一人の自分や知らない誰かが浮かび上がる。
あくまで西洋的な魅惑がある香りだが、朽ちていく美しさや腐敗するほどに増す魅力は、日本的とも思う。

今日は、寝苦しく重たい「インド夜想曲」に合わせて、パチュリをブレンドする。
墨汁の香りを想わせるパチュリは、南国的だが、禅の静けさ、凜とした佇まいも感じる。
甘くなりすぎるイランイランを、しっかり支えて締めてくれる優秀なベースノートとなってくれる。
酷暑で寝付きの悪い夜に。
何もかも忘れて、深く深く眠りたいときに。
知らない自分に出会えるように。
【植物データと香りの解説】
イランイラン
学名:Cananga odorata
科名:バンレイシ科
属名:カナンガ属
主産地:コモロ諸島、マダガスカル、インドネシア、フィリピンなど
芳香成分
モノテルペンアルコール類(リナロールなど)
エステル類(酢酸ベンジル、安息香酸メチル、安息香酸ベンジル、サリチル酸ベンジル、酢酸ゲラニルなど)
p-クレジルメチルエーテル、β-カリオフィレン、ゲルマクレンDなど
香りの解説
甘い香りは、多数のエステルと芳香族化合物から。
青く乾いた香りは、リナロールなどのテルペン系アルコールにp-クレジルメチルエーテルなどから生まれてくる。
濃厚さのほとんどは、エステル類で、そこでよく取り上げられる成分には、それぞれ個性がある。
酢酸ベンジル:洋梨、ジャスミン調 明るい花と果実
安息香酸メチル:熟れた果実と濃厚な花 重い甘さ
安息香酸ベンジル:どすんと沈む、バルサム調
サリチル酸ベンジル:温かく湿り気のある、甘い花
酢酸ゲラニル:フルーティなローズ調
p-クレジルメチルエーテルは、高濃度では刺激臭だが、少量であれば少し薬品的な冷たさに、皮革や熟れた植物を思わせる異質な刺激が重なっている。少量でも拡散性があるため、イランイランの中の青く鋭い香りとなっている。
【植物データと香りの解説】
パチュリ
学名:Pogostemon cablin
科名:シソ科
属名:ミズトラノオ属
主産地:インドネシア、中国、インド、マレーシアなど
芳香成分
セスキテルペンアルコール類(パチュロール(パチュリアルコール)、ポゴストールなど)
ノルセスキテルペンアルコール類(ノルパチュレノールなど)
セスキテルペン炭化水素類(α-ブルネセン、α-グアイエン、セイシェレン、β-パチュレン、α-パチュレン、β-カリオフィレンなど)
香りの解説
多数の(72種類ともいわれる)セスキテルペン類が組み合わさって、重厚で湿った土のような香りが生まれている。
特徴成分はパチュロールだが、これはどちらかというと乾いた土や材木のような香りだ。
もっともパチュリらしい香気成分は、微量成分のノルパチュレノールといわれている。少量でも強く香る「閾値が小さい」芳香成分のため、非常に低濃度でもパチュリらしい香りを強く与えてくれる。
また、ポゴストールや、α-グアイエンといった、グアイエン系の骨格をもった芳香成分も、ウッディでアーシーなパチュリの香りをさせてる大事な香気成分だ。
パチュリの香りは、多数の重たい芳香成分のハーモニーで成り立っていることが分かる。
石橋志保
CARACAROフィトテラピースクール代表
植物療法講師/ハーブ専門家
植物文化・死生学・ライフデザイン研究家
神戸を拠点に、伝統的なハーブ療法に、現代の成分化学、生化学、分子生物学などのサイエンスの観点を取り入れ、エビデンスベースなハーブ・アロマテラピーを展開。キャリア30年以上のプロ養成スクールを運営・指導。フィトケミカルや植物辞典など植物の科学と文化を幅広く発信。
植物と宗教・民俗、 死生観・ライフデザインをテーマに、講座やワークショップの企画運営、 講演・執筆活動を行う。
幼少から植物栽培、発酵・歴史・文化・宗教・民俗が大好物。修士(人間学)専攻は人間社会学、専門は死生学(災禍の儀礼、祈り、悲嘆ケア・グリーフケア)。神話・宗教・芸術と植物から、人が植物に託した思いを紐解き、祈りや儀礼とともにトランジションをデザインする「ハーベストライフ」を提唱、執筆講演活動中。


