生きていると境界を意識する瞬間が時々ある。
境界と聞くと、何かを分け隔てるものというイメージで、国境や、自分と他人など、いろいろな場面で使われる「境目」を示す線や面だ。
この境目は、示してもらうと、とてもわかりやすい。物事がはっきりするからだ。
だけど生きていると、観察できる状態のほとんどが、グラデーションのように漸次的に移行していることに気付く。
よく観察すると、なかには行ったり来たりと揺れ動いているものが多い。
死者と生者、あの世とこの世、ウチとソト、ハレとケ、清さと穢れなどは、対立していると捉えるが、実はゆっくりと移行し、行き来したりすることもあり、その境界があいまいに揺れている。
そんな境界というものに、人は、ふとしたときに恐怖を覚える。
いつもいる世界は安定していて、別の世界への移行は、良くもわるくも落ち着かない。不安定だからだ。
儀式やおまじないなどの通過儀礼を行い、その「ゆらぎの時間」に形を与えようとする。安心するために、境界を明らかにすることで、自分と居場所を守る。
そこに人は植物を植えた。 境目をつくり、生け垣を作り、結界をはる。
そのなかでも面白いのは、ネトルだ。

ネトルもまた、境界を守る草だった。
かつては、人が住む地域と、森や畑の境目などに多く生える「境界の植物」だった。
閉ざされた冬から、開けた春へ、新しい世界を迎えるときにも、ネトルは使われる。
ネトルを飲んだり食べたりする春季療法や、ケルトの五月祭りの時期に、魔除けや浄化としてネトルを用いる風習もある。
もしこれを、化学とサイエンスで紐解くならば、
人が長く住んでいた土地にはリンなどの栄養素が豊富で、空き地や荒れ畑よりもネトルの発芽や生育が良い。だから結果として、人が住む土地との境界にネトルが生えたのだろう。
自然に生えた野生のネトルを見て、その棘に気付き、
やがて村や家の外周、生と死を分ける墓地の周辺にも、境界を守る草として意識的に植えはじめたのだろう。
春に鋭い棘のネトルをわざわざ摘んで食べたり飲んだりするのは、塩蔵食品が多い土地ではカリウムや鉄分の補給となり、利尿作用などで身体の内側の「入れ替え=デトックス」を助けるからだろう。
植物は、目に見えない境界にそっと輪郭を与える。
人は、揺らぎのなかにある不安な時間を無事に過ごすために、側にある植物に支えられ生きていたのだ。
CARACARO 石橋志保
参考文献
https://www.academia.edu/144751037/Urtica_dioica_in_Cultural_and_Ecological_Context_An_Ethnobotanical_and_Historical_Study
https://besjournals.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1365-2745.2009.01575.x
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3998745/

石橋志保
CARACAROフィトテラピースクール 代表
エステティシャン、アロマセラピスト、植物療法 講師
30年以上の講師&クライアントワークのキャリアを土台に、講師・セラピスト向けに、エビデンスベースの精油・植物成分の情報と、カウンセリング・アドバイスなどの実際についてレクチャー。幼少から植物栽培、発酵・歴史・文化・宗教・民俗が大好物。大学院での専攻は人間社会学、専門は死生学(災害、儀礼、悲嘆ケア)

