死生学を学ぼうと思ったきっかけ
「専攻は死生学です」と答えると、いろいろな反応をいただきます。
その中でもよく聞かれるのが、
「死生学を学ぼうと思ったきっかけは何ですか?」
という質問です。
自分の備忘録も兼ねて、今日はそのことを少し書いてみようと思います。
大切な人の死は、誰もが必ず経験するから
私が死生学を学ぼうと思ったきっかけは、
「大切な人の死は、誰もが必ず経験する」
と思ったからです。
私自身、幼少期にまだ若い20代だった叔父、幼なじみ、大好きだった祖父を亡くしました。
その後も、成人前後に友人知人との死別をいくつか経験しています。
もちろん、自分自身が悲しかったのですが、それ以上に子どもながら忘れられなかったのが、遺された人たちの悲しみでした。
叔父の恋人。
叔父にとって父親代わりでもあった私の父。
友人知人の親御さん。
大切な人を亡くしたあとの、その深く静かな悲嘆が、ずっと心に残っていました。
そして阪神・淡路大震災をはじめ、今日までさまざまな災禍に触れてきたのは、きっと私だけではないと思います。
人は生きている限り、死や喪失と無関係ではいられない。
そのことを、私は早い段階から強く感じていたのだと思います。
植物の癒やしを仕事にして、再び悲嘆に触れた
特に阪神・淡路大震災は、私の人生を大きく変える出来事でした。
震災のあと、社会全体が「心のケア」や「ボランティア」に意識を向けるようになり、その流れの中で、植物が人を癒やすものとして注目されはじめました。
そうした時代背景もあり、私はアロマテラピーやハーブの講師の仕事に誘っていただくことになります。
子どもの頃から植物や小さな生き物が大好きだった私にとって、植物が好きな方々と関われる仕事は、本当にうれしいものでした。
好きな植物や香り、人の心身のことを話しながら仕事ができるなんて、なんて幸せなんだろうと思っていました。
当時はエステサロンに勤務していたのですが、無理を言って、指名のお客様のときだけ出勤する形にしてもらい、ダブルワークで続けていました。
植物と人の癒やしや健康について伝える仕事に就き、経験を重ねる中で、ボランティア活動にも関わるようになりました。
さまざまなボランティア活動の中で、とくに印象にのこったのは、終末期の方へのケア、大切な人を亡くされたご遺族の悲嘆ケア、小児がんの患者家族へのケアでした。
状況も、表現も、悲しみのあり方も、一人ひとりまったく違います。
それでも、その経験を通して強く感じたのは、
「大切な人を亡くさずに生きる人はいない」
ということでした。
そこから私は、悲嘆ケアについて本格的に学びはじめました。

もっと深く学びたいと思ったきっかけ
悲嘆ケアについて学びはじめると、同時に、自分の中にたくさんの問いが生まれました。
どうすれば、よりよいケアができるのだろう。
何が人の悲しみを支え、何がかえって傷つけてしまうのだろう。
悲しみは、癒やすものなのか、抱えて生きていくものなのか。
そうしたことを考える中で、
「もっと本格的に死生学を学びたい」
と思うようになりました。
そんなとき、医師をしている従兄弟の奥さまと、アロマテラピーやタッチング、そして悲嘆ケアについてお話しする機会がありました。
彼女は看護師でもあり、上智大学グリーフケア研究所で学んでおられて、そのお話を聞いたことが大きな転機になりました。
悲嘆ケアに対する真摯な姿勢や、学びに向かう思いに触れて、私も自分の道をきちんと進みたいと思ったのです。
そうして大学院で死生学を学ぶことを決めました。
当時の私には、現場での実践に入る前に、まず死生観や悲嘆、宗教や儀礼について、背景から深く考える時間が必要だと感じていました。
その方は、福島で保護された牛たちのお世話もされています。
東京から福島まで通い、牧草ロールを転がしながら、愛おしそうに牛たちの写真を見せてくださった姿が印象的で、今もずっと尊敬している方です。
人生の宝物になった学びの時間
大学院では、本当に多くのことを学びました。
たとえば、さまざまな宗教や文化における死生観、安楽死や終末期医療、トリアージの問題、生殖医療、葬送儀礼や追悼儀礼の役割、多様な死別と悲嘆のあり方などです。
また、死生学というと「死」だけを扱う学問のように思われがちですが、実際にはそれだけではありません。
多世代が住みよいまちづくり、環境倫理、動物愛護、そして時代背景もあってSDGsに関わる問題まで、
「どう生きるか」「どう共に在るか」
という問いに、社会全体の視点から向き合う学びでもありました。
そうした学びは、いまの仕事にもとても大きく役立っています。
そして何より大きかったのは、さまざまなキャリアとバックグラウンドを持つ方々と出会えたことでした。
その方々のお話を聞くこと自体が大きな学びでしたし、そこでの出会いや経験は、私にとって人生の宝物です。

私が大切にしたいのは、「亡くなられた方が生きた証」
私の中で、死生学やグリーフケアを考えるときの大きなテーマのひとつが、
「亡くなられた方が生きた証」です。
大学院での研究では、災害時の葬送儀礼や慰霊祭をテーマにしました。
私は、繰り返される祈りには、亡くなられた方の魂をなぐさめ、ご遺族の悲しみを癒やし、同じように傷を負った社会をも癒やし再生させる力があると考えています。
そしてその祈りは、やがてまだ知らぬだれかの幸せや、世界の平和への祈りへとつながっていくのではないか。
そんな思いで研究論文をまとめました。

一方で、グリーフケアとして私が特に大切にしたいと思っているのは、
「亡くなられた方について語ること、思い続けること」です。
大切な人が生きていた世界を、その人がいないまま生きていくのは、とても辛く、悲しいことです。
けれど、その時間を経る中で、人はときに、亡くなった方との関係を、以前とは違う形で結び直していくことがあります。
そしてその人が生きた証は、遺された人たちが語り合うことで、残していくことができる。
私はそう思っています。
亡くなられた方は、ただ消えてしまうのではなく、記憶や言葉や関係の中で、形を変えて生き続けることがある。
とはいえ、それは決して簡単なことではありません。
だからこそ私は、大切な人を思う気持ちや、その人とともにあった時間を、少しずつでも言葉にしていけるようなお手伝いができたらと思っています。
まだうまく言葉にしきれないところもありますが、これから少しずつ、自分の言葉で深めていきたいテーマです。
おわりに
長くなってしまいましたが、こうして書いてみると、自分がどんな思いで死生学や悲嘆ケアに向き合ってきたのかを、改めて振り返ることができました。
ここ数年、取材やインタビュー、ライフデザインの研修をきっかけに、思いがけず自分の半生を振り返る機会がありました。今回はその中でも、死生学と悲嘆ケアに絞って書いてみました。
書きながら、
「ああ、そうだったな」
と、久しぶりに思い出したこともたくさんありました。
そして改めて、やはり私は、悲嘆ケアにもう一度しっかり取り組みたいのだと思いました。
いつかこの学びや経験が、どなたかのお役に立てますように。
石橋志保


