先日の父との喧嘩(父と喧嘩して考えた 絶対的な力関係の中でずるい一言:父の人工透析) で、もう一つ気がついたことがあります。
それは、何かを代わりにやってあげたら、それで解決ではないということです。
■自分でできることが、一番の自由
年齢を重ねていくことで、得ることもあれば、失うことや、手放さなければならないことがあります。
それが生活のこととなると、相当なストレスになることを忘れてはいけないと思います。
それを「よかれ」と思って手伝ったりするのですが、手伝ったり代わりにやってあげたから、出来た。それで解決にはならず、結局本人は、「自分で出来なかった」ことに変わりなく、人によっては「人の手を患わせている」「世話をかけている」「迷惑をかけている」と思ったりするわけです。
もちろん、「ありがとう~」と感謝して、身も心も委ねてしまうことも出来るのかも知れませんが、それが毎日のこととなると、そうは言っていられないと思います。
「あれを取りたい」「お茶飲みたい」「○○買いに行きたい」「トイレ行きたい」「身体の向きを変えたい」などなどで、その都度誰かにお願いすると思うと、私はやはり「解決してない」と思いますし、申し訳なく思うし、何ならわずらわしく思うこともあるでは?と思います。
時々、講座でも取りあげる、吉本隆明さんの『老いの超え方』にも、同じような記述があります。
自分がガスの火をつけてお湯を沸かすということが、僕にとっては自由です。だけど、子供や家人が「それはやらなくてもいいよ、やるから」と言ってくれるのは、それは親切でしょうけれども、こちらにとっては不自由です。自由の束縛になる、(略)。
吉本隆明『老いの超え方』朝日文庫 2009

■「できなくなる」という喪失体験に心を寄せる
出来ないことを手伝うことや、手助けすることは、とても良いことだと思います。そして、手伝うことで「お茶が飲みたい」のような、目の前の望みや課題は解決するわけです。
ですが、父や母のような年齢になると「過去にできていたことができなくなってきた」という喪失体験を、かなり長い時間続けていることが多いのです。だらか、目の前の望みや課題を手伝ってもらっても、解決できてほっとすると同時に、「自分で解決できなかった」という事実にも直面するのです。
それって、自分だったら辛いなぁと思うのです。
■父母のためではなく、「私がやりたい」
両親を手助けするときは、やってあげている、やってもらっているという関係にならないように、「私が自分のためにやりたい」と思うことをする。そして、そのことを伝えることにしました。
言葉は乱暴だけど、死んでしまったら何も出来ない。そしてどんなにお世話した人でも、「あの時、もっとこうしておけば」という後悔におそわれるんです。だって「死」は不可逆だから。元に戻すことはできないから。
二人と永遠に会えなくなって、話せなくなったときに、いま思いつく限り、できる範囲はやったんだって思いたい。もちろん!自分が倒れないように加減するのも、自分のため。あまりにも理不尽で無茶なお願いは断ることも大事。
だから「自分のため」なんですよね。
やったことに対して、両親から「ごめんね」「ありがとね」と言われたときは、出来る限り「いいよ、私が自分のためにやってるから」と伝えます。やってあげたいと思ったことでも、「自分たちでやるからいいよ」と断られた時は、「私が心配しちゃうから、こっちでやらせてもらってもいい?」と伝えたり。
そして、私が何かやるときは「60点で合格、80点だったらハナマルにしといてね~」って、お願いしてます。「自分でやれるんだったら自分でやりたいよね」「他人がやると、細かいところが行き届かないけど、大目に見て~」と、言葉を添えて、「できない不自由さ」に少しでも心を寄せられたらと思うのです。
とはいえ、単純にこちらも疲れていたり、気持ちにゆとりがなかったり、物理的に時間的に出来ないこともあります。それに、やりたくないこともある。だから、今回の喧嘩みたいに上手くいかない日もあるんですけど、理解しようとすることが大事だと思っています。


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